鎌倉文学館
鎌倉文学館について ご利用案内 展覧会情報 イベント情報 鎌倉と文学 ミュージアムショップ
| 鎌倉ゆかりの文学 | 主なゆかり文学者 |
トップページに戻る ≫
文学者100人

山口瞳
山口瞳
大正15年〜平成7年(1926〜1995)
小説家。東京生まれ。国学院大学卒業。河出書房に入社するが倒産に遭う。寿屋(現サントリー)に入って、宣伝部で開高健、柳原良平らと「洋酒天国」の編集をし、コピーライターとしても活躍。昭和38年「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を受賞し、この年から「週刊新潮」に連載した「男性自身」シリーズは32年間にわたった。39年サントリーを退社、作家生活に入る。ほかに『マジメ人間』『小説吉野秀雄先生』『人殺し』『血族』『居酒屋兆治』『家族』などがある。戦後の鎌倉アカデミア文学科の第一期生でもあった。昭和20年から23年まで長谷の川端康成邸の隣に居住した。
山崎方代
山崎方代
大正3年〜昭和60年(1914〜1985)
歌人。山梨県生まれ。右左口尋常小学校卒業。昭和5年短歌会「地上」に入り、新聞・雑誌等に短歌や小説を投稿。9年「一路」に入会、職を転々としながら作歌を続ける。戦地で右眼を失明し左眼の視力もわずかとなる。戦後作歌を再開し「工人」「黄」などの短歌会に参加。30年に第一歌集『方代』を自費出版。その後、吉野秀雄の指導をうける。歌集『右左口』『こおろぎ』『首』『迦葉』、随筆集『青じその花』など。生涯独身で放浪の歌人といわれたが、47年鎌倉の知人・中国料理店主が手広の敷地内に用意した4畳半(方代艸庵)で没年までの13年間を暮らした。瑞泉寺で葬儀が行われた。
与謝野晶子
与謝野晶子
明治11年〜昭和17年(1878〜1942)
本名・与謝野しよう
歌人、詩人。大阪生まれ。堺女学校卒業。浪華青年文学会「よしあし草」に発表の詩歌が「明星」主幹与謝野鉄幹の目にとまり、東京新詩社の社友となり「明星」に短歌を発表。明治34年東京へ出奔して鉄幹と同居、結婚。その間に『みだれ髪』を刊行、大きな反響を呼んだ。歌集に『小扇』『恋衣』『舞姫』『太陽と薔薇』など多数。散文集『一隅より』、自伝的小説『明るみへ』もある。「源氏物語」の現代語訳を完成させ、一方で文化学院の創設に参加、芸術教育の実践にもたずさわった。昭和3年頃から11年にかけて、稲村ガ崎の有島生馬邸や知人の別荘、海浜ホテルに滞在するなど、度々来遊した。
吉井勇
吉井勇
明治19年〜昭和35年(1886〜1960)
歌人、劇作家、小説家。東京生まれ。早稲田大学中退。学生の頃より「明星」歌壇で注目された。明治41年北原白秋らと耽美派の拠点ともなる「パンの会」を結成。翌年石川啄木らと「スバル」を創刊し、編集にあたる。以後短歌を中核として、戯曲、小説、随筆など多彩な活動を行った。歌集に『酒ほがひ』『昨日まで』『祇園歌集』、戯曲集に『午後三時』など。幼少期を材木座の父の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に入学、半年後に東京に転校。その後も明治38年の転地療養なども含め、坂ノ下、長谷など鎌倉に数回仮寓した。
吉野秀雄
吉野秀雄
明治35年〜昭和42年(1902〜1967)
歌人。群馬県生まれ。慶応義塾大学中退。正岡子規をはじめ「アララギ」派の短歌に親しみ、会津八一に私淑して作歌を始めた。大正15年に私家版歌集『天井凝視』を出版。生涯の大半を療養の床に過ごすが、古典の研究に励みつつ歌集『苔径集』『早梅集』『寒蝉集』や随筆集『やはらかな心』『心のふるさと』などを出版した。昭和11年に白秋門下の米川稔らと鎌倉短歌会をおこし、また戦後鎌倉アカデミア文学科の教授も務めた。大正14年七里ガ浜に転地療養、長谷の借家に移り翌年まで居住。昭和4年にも滞在し、6年から没年まで小町に居住した。瑞泉寺に墓と歌碑がある。
吉屋信子
吉屋信子
明治29年〜昭和48年(1896〜1973)
小説家。新潟県生まれ。栃木高等女学校卒業。在学中から「少女世界」などの雑誌に投稿、大正8年新聞に応募の「地の果まで」が一等当選。ついで「海の極みまで」で文壇に認められた。『花物語』などの少女小説、『良人の貞操』などの大衆小説で人気作家となった。戦後は『安宅家の人々』『私の見た人』『鬼火』『自伝的女流文壇史』『底のぬけた柄杓』などで長短編や伝記ものにも分野を広げ、やがて歴史小説へと新境地を開き、『徳川の夫人たち』『女人平家』などを刊行。昭和19年から長谷の別荘に疎開し、25年東京に移るが、再び37年から没年まで長谷に居住。高徳院の墓所に眠る。
図録の閲覧はこちら ≫

プレス関連・取材をご希望の方へ Q&A お問合せ リンク サイトマップ プライバシーポリシー
公益財団法人鎌倉市芸術文化振興財団
ハルノデザイン